
ある日 海辺の町で 古い棚を拾った人がいました。
砂に半分うもれていたその棚は、木の端が割れて
引き出しがいくつか欠けていました。
でも まだ形は残っていて
何より手ざわりがとてもやさしかったのです。
持ち帰って 部屋のすみっこに置いてみると
なんとなく 部屋の空気がしずまりました。
引き出しはぜんぶで七つ。
でも 六つには鍵がかかっていて 一つだけ開きました。
その一つの引き出しには 小さなメモが入っていました。
紙はふるく 少しにじんでいて
そこには こう書かれていました。
「この引き出しは 海です」
「何を入れてもいいですが ときどき返ってきます」
その人は 首をかしげながらも ためしにメモを入れてみました。
今度は自分の言葉で。
「きょうは 声をかけそびれました」
それから引き出しをしめて 部屋の灯りを消しました。
次の日の朝 引き出しを開けると 中に紙が一枚増えていました。
そこには 見たことのない字でこう書かれていました。
「それでも 風は気づいていました」
誰が書いたのか分かりません。
でも なんとなく その返事はまちがっていないような気がしました。
その日から その人はすこしずつ 言葉を入れていくようになりました。
「ねこの名前を忘れてしまった」
「くつひもがうまく結べなかった」
「会いたくない人に会ってしまった」
「うれしかったけど うまく笑えなかった」
入れたものは 次の日返ってくることもあるし
ずっと沈んだままのこともありました。
でも ときどきふっと 思いがけない言葉が返ってきました。
「名前がなくても 膝には乗ります」
「笑わないときの顔も ちゃんと届いています」
「沈んでいるものが多い海のほうが たしかな重さがあります」
それは説明でも慰めでもなく
ただ引き出しの向こうから 静かに届く声でした。
ある夜 その人は ためらいながらもこんなふうに書きました。
「なくしたものの中で いちばん大事だったのは
なくしたあとに思い出せたことかもしれない」
そしてそっと引き出しを閉じました。
その言葉には もう返事はいらないような気がしたからです。
季節がいくつか過ぎました。
鍵のかかった六つの引き出しは いまもそのままです。
でも 開くほうの引き出しは いまもちゃんと海です。
波の音も 泡も 光もありませんが
そこに言葉を入れると 沈んでいく感覚だけはたしかにあります。
引き出しは 時々しか返事をくれません。
でも 返ってこなかった言葉たちも
どこかでゆらいでいるような気がします。
ときどき それを思い出すだけで
少しだけ 呼吸が深くなる日があります。
そしてまた夜がくると 誰にも言わなかった小さなことを
一枚の紙に書いて そっと引き出しに入れたくなるのです。

ある日 海辺の町で
古い棚を拾った人がいました。
砂に半分うもれていたその棚は 木の端が割れて
引き出しがいくつか欠けていました。
でも まだ形は残っていて
何より手ざわりがとてもやさしかったのです。
持ち帰って 部屋のすみっこに置いてみると
なんとなく 部屋の空気がしずまりました。
引き出しはぜんぶで七つ。
でも 六つには鍵がかかっていて
一つだけ開きました。
その一つの引き出しには
小さなメモが入っていました。
紙はふるく 少しにじんでいて
そこには こう書かれていました。
「この引き出しは 海です」
「何を入れてもいいですが
ときどき返ってきます」
その人は 首をかしげながらも
ためしにメモを入れてみました。
今度は自分の言葉で。
「きょうは 声をかけそびれました」
それから引き出しをしめて
部屋の灯りを消しました。
次の日の朝 引き出しを開けると
中に紙が一枚増えていました。
そこには 見たことのない字で
こう書かれていました。
「それでも 風は気づいていました」
誰が書いたのか分かりません。
でも なんとなく その返事は
まちがっていないような気がしました。
その日から その人はすこしずつ
言葉を入れていくようになりました。
「ねこの名前を忘れてしまった」
「くつひもがうまく結べなかった」
「会いたくない人に会ってしまった」
「うれしかったけど うまく笑えなかった」
入れたものは 次の日返ってくることもあるし
ずっと沈んだままのこともありました。
でも ときどきふっと
思いがけない言葉が返ってきました。
「名前がなくても 膝には乗ります」
「笑わないときの顔も ちゃんと届いています」
「沈んでいるものが多い海のほうが
たしかな重さがあります」
それは説明でも慰めでもなく
ただ引き出しの向こうから
静かに届く声でした。
ある夜 その人は ためらいながらも
こんなふうに書きました。
「なくしたものの中で いちばん大事だったのは
なくしたあとに 思い出せたことかもしれない」
そしてそっと引き出しを閉じました。
その言葉には
もう返事はいらないような気がしたからです。
季節がいくつか過ぎました。
鍵のかかった六つの引き出しは
いまもそのままです。
でも 開くほうの引き出しは
いまもちゃんと海です。
波の音も 泡も 光もありませんが
そこに言葉を入れると
沈んでいく感覚だけはたしかにあります。
引き出しは 時々しか返事をくれません。
でも 返ってこなかった言葉たちも
どこかでゆらいでいるような気がします。
ときどき それを思い出すだけで
少しだけ 呼吸が深くなる日があります。
そしてまた夜がくると
誰にも言わなかった小さなことを
一枚の紙に書いて
そっと引き出しに入れたくなるのです。