
まちのすみっこに 小さな喫茶店があります。
入り口のドアは ガラスのはめこまれた古い木のドア。
ドアベルは 鳴らすと「からん」と小さな音を立てて すぐにまた静かになります。
そのお店の名前は「夜のピアノ」
でも ピアノは置いてありません。
コーヒーと キャンドルと やさしいカーテンと。
それから どこからともなく聴こえてくる音楽だけ。
お店は 夜の十時からしか開きません。
朝や昼はやっていなくて 夕方もまだ閉まったまま。
店主も 姿を見せたことがありません。
それなのに 毎晩ふしぎと 開いているのです。
その喫茶店には たまにふらりと人が入ってきます。
ある晩やってきたのは ひとりの若い男の人でした。
仕事帰りのようで ネクタイは少しゆるんでいて 目の下にうっすらとクマがあります。
「……やってるのかな」
ドアの前でつぶやいて 恐る恐る手をかけると
「からん」とベルが鳴って 扉が開きました。
中には誰もいませんでした。
カウンターの奥も テーブルのまわりも まっすぐに静かです。
だけど お店の中にはあたたかい灯りと
かすかにピアノのような旋律が流れていて
そして何より コーヒーのにおいがしました。
「……いい匂いだな」
思わずつぶやいて 男の人はそっと席に座りました。
椅子は深くて すこし沈みこむ感じ。
カウンターの上には 小さなメニューカードが一枚。
けれど 文字は書かれていません。
それでも不思議と「待っていれば大丈夫」と思えたのです。
しばらくすると 音もなくカップが運ばれてきました。
誰もいなかったはずのカウンターから
まるで煙のように すっと湯気をたてたカップが置かれたのです。
男の人は そっとそのカップを手に取ります。
熱すぎず ぬるすぎず
ただ ちょうどいい温度で
一口飲むと ほっと息が漏れました。
その味は どこかで飲んだことがあるような
でもたしかに いまの気分にぴったりと寄り添ってくるような 不思議な味でした。
「……なんだろう。昔 駅で飲んだ缶コーヒー?
いや それとも……」
考えながら もう一口。
するとまた 胸の奥が ゆっくりとほどけていくのがわかります。
お店の中には 相変わらず人の気配はありません。
けれど カップは空になるたびに いつのまにか新しく満たされていて
ピアノの音も ほんの少しずつ 曲を変えながら流れ続けていました。
男の人は いくつ目かのカップを飲み終えてから
そっと立ち上がりました。
レジもなく お金を払う場所もありません。
ただ ドアの横に 小さな紙が貼ってありました。
「また来てくれてありがとう」
たったそれだけ。だけど そこに
自分の名前が なぜか書かれている気がして
男の人は少し驚いて それから笑ってしまいました。
「また来よう」
そうつぶやいて 男の人は
「からん」と音をたてて出ていきました。
外はまだ夜で 風はやわらかく
コートのすそを ふわりと持ち上げるくらい。
ふと見上げると 空に小さな星がひとつ
さっき飲んだコーヒーの味みたいな色で光っていました。
喫茶店「夜のピアノ」は 今夜もまだ開いています。
音のないピアノと ひとりぶんずつのコーヒーと。
静かでふしぎな 眠る前の
とっておきのひとときをそっと用意して。
さて 次にドアを開けるのは
誰でしょうね。

まちのすみっこに 小さな喫茶店があります。
入り口のドアは
ガラスのはめこまれた古い木のドア。
ドアベルは 鳴らすと
「からん」と小さな音を立てて
すぐにまた静かになります。
そのお店の名前は「夜のピアノ」
でも ピアノは置いてありません。
コーヒーと
キャンドルと
やさしいカーテンと。
それから
どこからともなく聴こえてくる音楽だけ。
お店は 夜の十時からしか開きません。
朝や昼はやっていなくて
夕方もまだ閉まったまま。
店主も 姿を見せたことがありません。
それなのに 毎晩ふしぎと 開いているのです。
その喫茶店には
たまにふらりと人が入ってきます。
ある晩やってきたのは
ひとりの若い男の人でした。
仕事帰りのようで
ネクタイは少しゆるんでいて
目の下にうっすらとクマがあります。
「……やってるのかな」
ドアの前でつぶやいて 恐る恐る手をかけると
「からん」とベルが鳴って 扉が開きました。
中には誰もいませんでした。
カウンターの奥も テーブルのまわりも
まっすぐに静かです。
だけど お店の中にはあたたかい灯りと
かすかにピアノのような旋律が流れていて
そして何より コーヒーのにおいがしました。
「……いい匂いだな」
思わずつぶやいて
男の人はそっと席に座りました。
椅子は深くて すこし沈みこむ感じ。
カウンターの上には
小さなメニューカードが一枚。
けれど 文字は書かれていません。
それでも不思議と
「待っていれば大丈夫」と思えたのです。
しばらくすると
音もなくカップが運ばれてきました。
誰もいなかったはずのカウンターから
まるで煙のように
すっと湯気をたてたカップが置かれたのです。
男の人は そっとそのカップを手に取ります。
熱すぎず ぬるすぎず
ただ ちょうどいい温度で
一口飲むと ほっと息が漏れました。
その味は どこかで飲んだことがあるような
でもたしかに
いまの気分にぴったりと寄り添ってくるような
不思議な味でした。
「……なんだろう。昔 駅で飲んだ缶コーヒー?
いや それとも……」
考えながら もう一口。
するとまた 胸の奥が
ゆっくりとほどけていくのがわかります。
お店の中には
相変わらず人の気配はありません。
けれど カップは空になるたびに
いつのまにか新しく満たされていて
ピアノの音も ほんの少しずつ
曲を変えながら流れ続けていました。
男の人は いくつ目かのカップを飲み終えてから
そっと立ち上がりました。
レジもなく お金を払う場所もありません。
ただ ドアの横に
小さな紙が貼ってありました。
「また来てくれてありがとう」
たったそれだけ。
だけど そこに
自分の名前が なぜか書かれている気がして
男の人は少し驚いて
それから笑ってしまいました。
「また来よう」
そうつぶやいて 男の人は
「からん」と音をたてて 出ていきました。
外はまだ夜で 風はやわらかく
コートのすそを ふわりと持ち上げるくらい。
ふと見上げると 空に小さな星がひとつ
さっき飲んだコーヒーの味みたいな色で
光っていました。
喫茶店「夜のピアノ」は 今夜もまだ開いています。
音のないピアノと
ひとりぶんずつのコーヒーと。
静かでふしぎな 眠る前の
とっておきのひとときをそっと用意して。
さて 次にドアを開けるのは
誰でしょうね。