わがままであること

わがままであること

なぜ私は人に対して好きベースで接しないのか。
好きベースという言葉を、私は「好意的に見る」という意味に解釈していた。
もちろん、好きの基準が違うから、私の好きの基準が厳しいから、初対面の段階では相手がその基準を満たしていないだけなのかもしれない。
けれど、「好意的に見る」という意味なのだとしたら、初対面の相手に対して、私には「好意」という感情が全く無いと言ってもいいほど、何もない。

また、好きベースだと言えるということは、誰かに出会う前から、これから出会うであろう誰かが仮想的な存在である段階から、相手に対して好意的な感情を持っているということだ。
人間が好き。その感情自体が私には無いもので、好きな人間もいれば嫌いな人間もいる、という程度で、これは、私の人間に対する興味の無さの現れなのかもしれない。
もしかすると、幼少期に受けた「友達は選べ」という教育の影響もあるかもしれない。「人間は選ぶもの」という意識が初めからあるために、初対面の人間を好意的に見る相手、つまり、選ばれた相手として認識しないのかもしれない。

初めから相手に対して好意的な感情を持つという態度は、相手を無闇に否定しない、相手がどんな人間であれ一旦受け入れる、といった態度に似ているだろうか。
だとしたら、そのような態度であることに、私が好意を必要としていないだけかもしれない。
相手を好意的に見ていなくても、そのような態度でいる事は可能だ。

どうしても好意的に見ることができない人間というものを強く認識していることも、私の人間に対する態度に影響しているのかもしれない。
「自分が疲弊するから、好かれすぎるのも困る」という意識も、私のものとは少し異なるように思える。
私の意識では、どちらかというと「自分に害が及ぶから、好かれすぎると困る」だ。
これは相手にもよる。「自分に害が及ぶような形で、好意を持ちすぎる相手がいる」という認識かもしれない。
自分が疲弊することも「害が及ぶ」に含まれているともいえるが、「自分が疲弊するから」というよりも、相手が「私に害を及ぼす人間である可能性があるから」好かれすぎると困ることがあるのだ。
そして、誰かが私に害を及ぼすとき、そのきっかけが、私の相手に対する好意である場合がある。
だから、誰にでも好意的に接するということ自体が、私にとって、リスクのある行動なのだ。

ここには、なんとなく、責任を相手に寄せているような気配も感じる。
相手を受け入れること、つまり相手を尊重することと、自分の身を守ること、つまり自分を尊重すること。
これらのうち、後者をより重視しているのかもしれない。

全編を通して、最も印象的だったのは、家族に笑っていてほしいという気持ち。
「どうせここにいるしか無いなら、揉めない方がいい」という思考には、「どうせここにいるしかない」という諦めが含まれているように思える。
私の中にあるのは、「自分が何かをしようとしても、どうせ不機嫌は持ち込まれる」という諦めだ。
いくら自分が誰かを笑顔にしようとしても、究極的には、他者の思考や感情は、私にはどうすることもできないものだと思っているのだ。
究極的には。つまり、私の思考が極端すぎるだけなのかもしれない。
けれど、他者の感情は私にはどうすることもできない場合があり、笑顔でいることや元気であることを強制できるものでもないと感じている。
悲しい気持ちになっている人や落ち込んでいる人に、笑顔になってほしい、元気になってほしいという気持ちもあるが、落ち込みたいときは落ち込めばいいし、怒りたいときは怒ればいい、とも思うのだ。

人間は、どうしようもなく不機嫌になってしまうことがあるし、不機嫌になって怒ったりすることで、自分の感情に折り合いをつけられることもあると思うのだ。
だから、自分がいくらがんばっても、誰かによって不機嫌が持ち込まれるのは仕方がないことのように感じるし、それを、自分が好ましく感じないとしても、どうにかしようとは思わないのかもしれない。

こんなことを言うと、まるで善人のようだが、そうではない。
自分も同じようなことがあるから、他人にとやかく言わないようにしているだけだ。
感情を無理に抑えることで、根っこを余計に腐らせることもあるのだ。
であれば、より深刻な事態を招く可能性があるのだとしたら、感情をコントロールすることを私は誰かに強制できないし、私も強制されたくはない。自発的でありたい。

そして、どんな感情であれ、相手が大切な人間であれば、その感情も含めて受け止めたい。
大切ではない人間、つまり、その空間に存在しているだけの、好きでも嫌いでもない人間(あるいは嫌いなだけの人間)であれば、どうでもいい。
どうでもいい人間の感情に、振り回されない自分でありたい。

03:評価という名のラベリング
「優しい」という言葉が、当たり前のように喜ばれる前提で投げかけられることに、かすかな違和感が残る。それは称賛の形をした、一方的な価値観の押し付けではないか。世間が決めた正解の枠に当てはめられることで、私自身の本当の感情が置き去りにされていくような、そんな感覚がある。