劇で役を演じているのは 本当の自分か

劇で役を演じているのは 本当の自分か

演じている自分は本当の自分か。
どこまでが本当の自分なのか。
演じているのも自分であることに間違いはないが、
なぜそれを自分ではないように感じてしまうのか。
人はどれくらい、自分を演じているものなのか。

素の自分ってなに?

相手によって、場面によって、言葉選びや声の明るさ、表情、テンポなど、使い分けるのは決して特別なことではないと思っている。
人はどの程度使い分けているものなのか。
それが「本当の自分」だと言われることに違和感を覚え、それも「本当の自分」だと言われればたしかにそれはそうだと思いつつ、なぜか納得できずにいたけれど、「本当の自分」というよりも「素の自分」だと思われているかもしれないことに対して違和感があるのだと思う。

嘘の自分とは言い切れない。
表面的な自分を使い分けているとしても、思ってもいないことを言わないとか、嘘をつくとかいうわけではないから、それが嘘の自分というわけではない。

けれど、素の自分だと言われたらどうか。
そもそも素の自分とはなんだ?どれが素の自分なのか。それもはっきりとはわからないから、ぜひ教えてほしい。
素の自分なんてものが存在しているのか。素のときと、素じゃないとき、何かが明確に違うのか。それとも、全部自分なのだから、全部素の自分だと考えているのか。今の私は素の私だと思われているのか。

客と接する仕事においては、営業モードというものが存在するのは、比較的よくあることだと思う。
相手が不快に感じないようにとか、相手が気持ちよく買い物してくれるようにとか、いろいろ考えることはある。
その、営業モードの自分は、本当の自分なのか。素の自分なのか。

私の一部である以上、嘘の自分であるとは言わないけれど、素の自分かと言われると、素ではない。
営業モードが素ではないと感じてしまう所以は、相手からの印象を考慮して、自分のキャラクターのようなものを演じている感覚があるからなのではないかと思う。
演じている感覚、相手からの見え方を意識すること。
何かを意識して、考えて行動を選んでいる時点で、素ではないと感じてしまうのだ。

そしてこれが、仕事以外の場面でも発生している。
他の人はどうなのだろう。普段からどれくらい考えているのか。

私は、かなりの場面で考えてしまっている、というか、あまり考えてもいないけれど、反射的に態度を選んでいる。
これは、他人の目を気にしすぎているのとは少し違う。
そういう人は、大抵の場合、人から悪く見られたくない、と考えて、言動を選んでいるものかと思っていたけれど、どうか?この前提も想像でしかないので、実践している人の意見も訊きたい。

少なくとも、私の場合は「他人から悪く見られたくない」というわけではなくて、この場面ではどう見られるように振る舞うのがよさそうか、という基準で言動を選んでいる。
仕事の場合は、悪い印象を与えないようにとか、安心感を与えられるようにというのがベースではあるが、相手によっては、あえて悪い印象、意地悪な印象、乱暴な印象を与えようとすることもある。
また、相手が私にどういう態度をとってほしそうか、ということも判断材料になる。

これくらいのことは、考えながら生活している人が多いだろうか?

そして私の感覚では、これらを考えて選ぶのではなく、反射的に行っている。瞬発力で態度をコントロールしている。
だから、ただの癖のようなものなのだ。相手からの印象をそこまで気にしているつもりはないのだ。勝手にやってしまっている。

そもそも、私が誰かに何か特定の印象を与えたいと考えたとして、思い通りの印象を与えることが、毎回成功するとも限らないだろう、と言われたことがある。たしかにそうだ。
相手がどんな印象を受けているかも私にはわからないし、真逆の印象を与えていることもあるだろう。

けれど、うまくいってしまうことが比較的多かったのだ。
それは、周囲の人たちが、目に映るままを真実と受け止めているからなのか、そこまで態度をコントロールしている人間が想定されていないからなのか、本人がそこまでコントロールしながら生活していないからなのか。
気付いていながら、騙されたふりをしてくれているのか。

アイドルの素についてどう考えるだろうか。
アイドルも、場面によっては、素を見せていると考えるか?

アイドルは夢を売る仕事だと私は考えているので、アイドルを「演じる」というのは別に不思議なことではないと思う。
本当になにも演じていない、素のままで活動しているアイドルも絶対にいないとは言い切れないが、夢を売っている以上、演出が含まれることも多々あると思うのだ。

だから、いくら素に見えても、それは「素に見える自分」を演出しているだけなのではないかと考えてしまう。

作られたアイドルの姿だけではなく、素の部分が垣間見えることで、ファンを喜ばせることもできると思う。
アイドルは夢を売っているとわかっているからこそ、素の部分が見えると嬉しい、普段は見せない一面が見えると嬉しい、という感情もあるだろう。

けれど、そこまで含めて演出である可能性を、どれくらいの人が考えているのか。そこまでわかった上で、より素に近そうに見える一面を垣間見ることで、嬉しい気持ちになるのだろうか。
それがただの演出だとしても、ファンは構わないのだろうか。
それとも、本当にそれが素だと思って、喜んでいるのだろうか。

考えすぎだと言われるかもしれない。そんなわけないだろうと言われるかもしれない。
けれど、そう思ってしまうぐらいには、私は疑り深く、偽物感に敏感なのだ。
それは私が、素に見せるための演出を知っているからで、かつてそれを実践していたからだ(あくまでも仕事で)。

嘘のつき方みたいなものだと思う。真実の中に一つだけ嘘を混ぜるような嘘のつき方。
ほとんど素のままの私の中に、一つだけ嘘を混ぜる。ほとんどが真実だから、真実と言って差し支えないかもしれない。
けれど、そのたった一つの嘘をベースに、素の自分を構築していたらどうか?
すべてが嘘のような気がしてしまう。

私の声は、どんなふうに聞こえているのだろうか。
決して素の自分を正しく認識してもらいたいというわけではない。
素の私なんて、傲慢で我儘で横暴だ。
滲み出てしまうことはあっても、わざわざ見せたいわけではない。

そして、何かを演じているかもしれないことを見破られたいわけでもない。
むしろ、見破られやしないかと怯えている。疑われたいわけでもない。

だから、表面的な自分が、素の自分に見えていたとしても問題はないし、そう見えることは喜ばしいことのはずだ。

ただ、それを素の自分だと思われているかもしれないと思うと、どうしようもなく落ち着かない。

これはどういう感情なのだろうか。
まったくの素というわけではなく、何かしらの労力を費やして接しているということを、無視されるのが嫌なのか。
本当は苦しいのに、それに気付いてもらえないこと、その可能性すら考慮されないことが不満なのだろうか。
そもそも、他人と接するときに、まったく何も気を遣わないということ自体があり得ないことかもしれなくて、だから、その部分は当たり前のものとして無視されるのだろうか。