喜んでほしい気持ちと 喜ぶべきという気持ち
誰かが喜んでくれると嬉しい気持ち。
誰かを喜ばせたい気持ち。
きっと喜んでくれるだろうという気持ち。
それが押し付けになってしまうんじゃないかと思うことがある。
とくに、誰かを褒めようとするとき。誰かを褒めている人を見るとき。
ただ純粋に、自分の感じたままを伝えているだけの人もいるだろう。
けれど、それを相手に伝えるとき、相手が嫌な気持ちになるかもしれないことは、あまり想定されていないのかもしれない、と思うことが時々ある。
意識的に嫌味を言おうとするのでなければ、相手が快く、うまくいけば喜んで受け取ってくれるかもしれない。そのような前提のもと、褒め言葉は発されているのではないかと思う。
けれど、褒めてもらった部分ががコンプレックスである人もいるだろうし、精神的な負担を感じながら、褒められるような人物像を演じている人もいるかもしれない。
世間で広く、美点とされていること。これを、全員が全員、美点と捉えているわけではない。
そんなことは、少し考えてみれば、そりゃそうだと気付ける気がする。
けれど、誰かを「美人だ」と褒めるとき「ブスと言われるよりはマシだろう」などと考えてしまっている人も、いるのではないか?背が高い人を褒めるときの「チビと言われるよりはマシ」など。
要するに「貶されるよりはマシ」。
そして、「貶されるよりはマシ」なだけのものが、「嬉しいに違いない」になってしまうこともあるような気がする。
自分が褒められるとき。
嬉しいに違いない。きっと喜んでくれるだろう。そんな感情を、たまに感じてしまうことがある。
場合によっては、もっとわかりやすい下心だ。
そして、褒めてくれた相手が私に喜んで欲しそうなとき、嬉しくなかったとしても「喜ぶべきなんじゃないか」という強迫観念のようなものに苛まれることがある。
プレッシャーを感じる。
これもまた、私が褒められるのが苦手だった理由の一つだ。
同じように感じたことがある人もいるだろうか。
私がこれまで、下心に基づく褒め言葉を受け取りすぎたせいで、捻くれてしまっただけだろうか。
たとえば、褒めて喜ばせて、仲良くなろうとする人。まあ、これは人とコミュニケーションを取るための第一歩としてよくあることなのかもしれないし、王道なのかもしれない。
たとえば、褒めることで気分を良くさせて、規定以上のサービスを受けようと目論む人。こういう人は、嫌いだ。むしろ大量の褒め言葉だけをありがたく受け取りたい。見返りなどない。
たとえば、褒めてやったんだから喜べ、というスタンスの人。感謝されると思っている人。どうしてそんなに傲慢なんだ?
などなどだ。
そんな自分の体験があるから、人を褒めるのがとても苦手だった。
私の発する褒め言葉に、そのような感情が乗ってはいないか?
「喜んで欲しい気持ち」の押し付けになっていないか?
さらに、私と同じ捻くれ者の諸君は、こう感じることもあるだろう。
褒めてくれたけど、そんな人、世の中には五万といる。
これを、ただの捻くれ者で片付けてしまうことは簡単だが、どうしても考えてしまう。
相手の褒め言葉を信じられない人を見かけたときに、思ってしまうことがある。
それは、言葉を信じられない、素直に受け取れない側だけの問題ではなく、相手の褒め方が下手なだけなんじゃないか?
人が嬉しいと感じるのはどんなときか。
これを突き詰めて考えるのは、また別の機会にしたいが、今のところ、その人の存在自体を肯定されたときなのではないかと思っている。
人の存在、その本質、その人をその人たらしめているところのもの。
その部分を褒められたとき、嬉しいと感じる可能性が高いのではないだろうか。本能的に。
人の本質を褒める、なんて言うと、とても難しいことのように感じられるが、人の存在を肯定する気持ちをシンプルに考えてみると、相手のことが好きだ、という感情に凝縮されるのではないかと思う。
思い込みや決めつけをできるだけ排除した上で、特定の側面だけを好きだというのではなくて、その人の存在そのものに対する好意的な感情。
このような「好き」という感情に基づいた褒め言葉には、相手の存在そのものを肯定する力があるような気がする。
好きな相手には、自分の感情を押し付けたくはないし、プレッシャーを感じてほしくもない。もちろんお世辞なんて言いたくない。自分が言われても、別に嬉しくないから。
相手のことを多面的に理解したい気持ちがあれば、表面的な部分だけでなくて、もっと深くまで知りたいと思うし、言動の背後にまで想像を至らせたいと思う。
そして、そんな気持ちで、相手を褒めようとするとき、それは「褒める」というよりも、ただの「好き」の表明になるんじゃないかと思う。
「褒めたい」なんてものは通り越して、ただ「好き」という気持ちを伝えたいだけ。
「私は」好きだ、と伝える場合のように、自分を主語にして相手に気持ちや感想を伝えることは、おそらく、思いやりを持って人と接するときの基本だ。少なくとも、私はそう思っている。
相手の考えや感情を否定せずに、自分の考えや感じたことを伝えるための手法だ。何かの本で勉強しただけだけど。
褒める場面に限らず、「私は」こう思う、「俺は」こう感じた、そんな言葉選びをしている人を、何人か知っている。言い訳からではなく、思いやりから、そのような言葉を選んでいそうな人。本人たちが、何をどのくらい意識して、そうした言い回しをしているのかわからないが、やさしい人たちだなと思う。私は彼らのそういうところが好きだ。

