期待することは やさしさか

期待することは やさしさか

私は期待されるのが苦手だ。
期待を裏切ってしまうと、心苦しいからだ。

このような感じ方をしてしまう理由は、以前にも話したような気がする。文章では書いていなかったかもしれないので、改めて書いておく。
幼少期「これくらいできて当然」の期待を押し付けられて(いるように感じて)過ごしていたので、期待を裏切ること=親や周囲の人間達に認められる基準を下回ることが、とても悪いことのように感じてしまっていたからだ。おそらく。親に認めてもらえなければこの世の終わりのような感覚。
反抗すると叩かれたり、鍵のついた暗い部屋に閉じ込められるのは普通のことだと思っていたけれど、もしかして普通ではないのかもしれないという衝撃の事実に少々戸惑っている今日この頃だ。私はそんなことをされても当然…かどうかはさておき、それくらい親を怒らせてしまうような反抗的な態度をとっていたのだろうと思っていたから。これは多分間違っていない。憎たらしい子供だったと思う。(なぜなら今でも、随分と憎たらしいことを言ってしまうから)

それはさておき、とにかく、期待を裏切るのが心苦しい。
今思い出したことだが、子供の頃、私の両親は、私と弟をよくいろんなところに連れて行ってくれようとしていた。
けれど私は、どこにも行かずにゆっくり過ごしたいこともあるのだ。
そこで、私が正直に「行きたくない」と言ってみると、悲しそうな顔をしたり、ムッとした顔をしたり。行きたくない気持ちを抑えて無理をして出かけても、せっかく連れて来てやったのになんだその不機嫌な態度は、などと言われたりするのだ。
もう、行きたくなくても、連れて来てもらって楽しいふりをするしかないのだ。よくがんばったね、10代までの私。
これは前回のテーマ、「喜ぶべきという気持ち」の時に話すべきだった。忘れていた。

この件に関しては、今は解決済みだ。上記のように感じていたことを全部親に伝えたし、私が感じていた喜ぶべきという強迫観念は、やや過剰だったようだし。行きたくないところに行かずに済むように、自分の行きたいところを提案することにしているから、今の私は大丈夫なのでご心配なく。

とにかく、子供の頃感じていた「期待に応えなければならない」の記憶がまだ残っていて、期待を裏切るのが心苦しい。

2 : 期待されない立場への逃避
期待されることを避けるため、あえて「期待できない人物像」を形成してきた。これにより失望を避けられる反面、他者への期待を持てないことへの自己評価の揺らぎが生じている。期待を拒む姿勢が、温かさの欠如と重なって見える点が問題として浮上している。

3 : やさしさとあたたかさ
「期待されていると感じないこと」と「期待されていないと感じること」は違う。後者には無力感が伴う。その気づきから、期待とは願望の押しつけに近く、他者の力を信じることがやさしさであると再定義する。あたたかさを生むのは、期待ではなく信頼なのかもしれない。