できた自分を褒めることで
自分を認められるか
自分の無力さを自覚したのは、いつか。
自己肯定感という言葉について、時々考えてしまう。
大人に限って言えば、そんなものは、あってもなくてもよさそう…欲しかったら高めればいいのでは…ぐらいに考えてしまっているけれど。
前に、自己効力感はあるけれど自己肯定感は低い人間について話してみたり、自己肯定感を高める方法について話してみたときのことを思い出したりする。
自己肯定感について話している人の話を聴いて、モヤモヤしたりする。
そもそも、自己肯定感とはどのようなものなのか。どのような意味で使われているのか。
まずは、シンプルに「自己を肯定する感覚」と定義して考えたい。
第一に、「肯定する」とは、具体的にどのような思考、判断等を指しているのか。
「肯定」の辞書的な意味を考えるならば、否定しないこと、認めること、受け入れること、などが挙げられるだろう。
第二に、肯定する「自己」とは、自分のどこまでを含むのか。
よくできた自分、好ましい自分、秀でた自分。
無力な自分、好ましくない自分、劣った自分。
自分という存在のすべて。
これはなかなか難しい。自己肯定感という言葉の本来の意味ではなく、広く認識されている感覚に目を向けると、「人ぞれぞれ」と言っても過言ではないような気もする。
そこで、第三に、自己肯定感が必要であると言われるのは、なぜなのか。
(ここで言いたいのは、自信を持つため、とかそういう単なる言い換えの次元の話ではない。念のため。)
自己肯定感を高めることにより、どのような利点があるのか。
たとえば、困難に直面したとき、折れずに立ち向かうことができるかもしれない。
心が折れそうになったとき、周りが敵ばかりのように思えてしまうとき、自分を支えてくれるかもしれない。
批判されても跳ね除ける強さになるかもしれない。
一歩踏み出そうとするとき、背中を押してくれるかもしれない。
これらの利点は、よくできた自分や好ましい自分を肯定するだけで得られるものなのだろうか。
たとえば、好ましい自分だけを肯定する場合、「今回は失敗したけど、自分には他にできることがあるから大丈夫」とか、「自分はこんなことができるから、この挑戦も上手くいくはずだ」とか、「この人からは否定されたけど、受け入れてくれる人もいるから大丈夫」などの感情が生じ得る。
この場合、できる自分や好ましい自分を拠り所として、困難や批判を跳ね除けようとしているのだろうか。
これらの思考は、一見、自身を支えてくれるように見える。
けれど、よくできた自分や好ましい自分だけを肯定することは、自己矛盾を孕んでいる。
非の打ちどころのない完璧な人間であれば話は別だが、大抵の人間は完璧ではない。
だから、よくできた自分だけを肯定することは、同時に、できない自分を否定することでもある。
これは、自己を肯定しているといえるだろうか。
他者から否定されなかったとしても、自分で自分を否定してしまうのだから、より一層タチが悪いように思える。
いつでも、誰でもとは言わないが、完璧(完璧をどう定義するか、という問題は、一旦置いておく)を目指そうとする人(純粋な向上心のみで完璧を目指す場合を除く)ほど、自己肯定感が低いように思えてしまうことがある。
根底に、完璧ではない自分に対する否定があって、完璧を目指そうとしているのであれば、完璧な自分しか肯定できないということであり、完璧ではあり得ない人間である自身を肯定することはできないからだ。
以前、自己肯定感を高める方法として、小さなことでもいいから「できた自分を褒めてあげる」ことが有効なのではないかという話をした。
たしかに、自身に対して「まったくの無価値だ」という評価をしている段階であれば、有効かもしれない。
けれど、これだけでは、真に自己を肯定できるようにはならないのではないかと思う。
同様に、自分のできることを増やす、理想の自分に近付くために自分を磨く、といったやり方も、それだけでは不十分だ。
できた自分を褒めることで、自分の中に認められる部分を増やすことにはなるだろう。
しかし、できた自分・理想的な自分しか認められない自分を作ってしまう可能性もある。
できた自分を褒めることは、できない自分への否定の相殺でしかなく、できた自分に目を向けることで、できない自分から目を逸らしているだけなのではないか。
完璧を目指そうとする向上心は尊敬できるが、人間は完璧な存在であり続けることはできない。
今のところ、少なくとも、老いを避けることはできないからだ。
頭も体も思うように動かなくなり、できることは少なくなっていく。
そうなったとき、できる自分しか肯定できない人間は、どうやって自身を支えるのだろうか。
かつてはできた自分を支えにするのだろうか。
これが、過去の栄光に縋る老人の正体なのだろうか。
人はいつ、自身の無力さを自覚するのだろうか。
できることの少なかった幼少期、できることが増えていき、比較的思い通りに努力ができる時期、そういった試みが望んだ結果につながりやすい時期を経て、どんなにがんばっても、がんばろうとしても、どうにもならない時を迎えるのではないだろうか。
そうなったとき、無力で劣った存在である自分を受け入れることができなければ、自身を肯定することなどできなくなるのではないだろうか。
何もできない自分には価値が無い、と思ってしまう老人の心情を想像するのは難しいが、少し苦しそうだなと思う。
自分の無力さを早めに自覚し、受け入れることができれば、あるいは、それに応じて価値のハードルを下げることができれば、穏やかに、芯の強さを持って生きられる気がする(そんな生き方をする必要があるかどうかはさておき)。
そうなのだとすれば、自分を支えるために必要なことは、できる自分を褒めることではなく、できない自分を慰めることなのではないかと思う。

